F1五輪観戦記

F1を中心に、五輪なども取り上げるスポーツ観戦記です

フェルスタッペン鬼門のシンガポール。サインツが熾烈なバトルを制する

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フェルスタッペンの連勝記録も、レッドブルの開幕連勝記録も、すべて止まった。フェルスタッペンは終盤に追い上げたが、5位がやっと。現行サーキットで数少ない未勝の地・シンガポールは、やはり彼の鬼門だった。

サインツがポール・トゥ・ウィンで今季初勝利。終盤に上位4台が2秒以内に収まる熾烈なバトルを制した。フェラーリにとっても昨年オーストリアGP以来、1年2カ月ぶりの優勝だった。

スタートでフェラーリが1-2体制に

ポールポジションサインツと3番グリッドのルクレールが抜群のスタートを決め、1コーナーでフェラーリが1-2体制を築いた。

20周目終わりにセーフティーカー(SC)導入で上位の全車がタイヤ交換した際も、サインツは首位を守った。以降はレース終盤に備え、ハードタイヤの寿命と後続との差をみながらペースコントロールに徹する展開となった。

割りを食ったのがルクレールだ。SC中の2台同時タイヤ交換でピットに向かう際、サインツとの距離を空けるとともに、後続を抑える役回りをさせられた。

これでルクレールは一時的に6位に落ちた。

メルセデス勢が追い上げる白熱の終盤戦

サインツが後続のフタをしたまま逃げ切るかと思われたが、終盤のハプニングで白熱のレースとなった。

62周レースの44周目。オコンのストップによるVSC導入の際に、上位勢の作戦が割れた。ステイアウトしたサインツやノリス、ルクレールに対し、ピットに入ってミディアムに交換するギャンブルに出たのがラッセルとハミルトンのメルセデス勢だった。

新品タイヤで猛追するメルセデス2台に対し、ステイアウトしたルクレールは身体を張って追い上げを阻止する汚れ役を任された。

53周目にラッセルに抜かれたが、彼のラップタイムを2秒ちょっと落とすことに成功した。

この日のフェラーリサインツを勝たせるために、すべての犠牲をルクレールに背負わせた。結果的に、ここで稼いだ2秒が大きくモノをいうこととなった。

VSCから14周後、サインツ、ノリス、ラッセル、ハミルトンの4台は2秒以内に接近し、火の出るようなバトルをみせた。

残り4周。シケインが撤去された14コーナーから16コーナーの直線区間ラッセルがノリスに並びかけるが、ノリスはラッセルを汚れたオフラインへ追いやる形で阻止した。

ここで抜ききれなかったことがラッセルの命運を決した。これ以後はノリスに並ぶチャンスはなく、最終ラップの13コーナー手前で側面の壁にヒット。そのままコース外のバリアに突っ込んだ。

後続を引き付けた、サインツの老練なレース運び

ゴール後、サインツは久々の勝利を喜んだ。タイヤの寿命をみながら、エンジニアの指示通りのペースを走って得た優勝は、チームへの信頼の面でも大きい。

レース運びも老練だった。終盤の接近戦では、ストレート前でノリスをわざと1秒差以内に引き付け、DRSの使用権を与えることで、ノリスをラッセルの抑え役としていた。

56周目までラップタイムは1分38秒台半ばで推移していたが、4台の間隔が詰まった58周目以降は1分39秒台半ばから40秒台へガクッと落ちた、意図的に後続を引き付けたことが見て取れる。

『ペースはメルセデス勢が明らかに速い。しかし、自分のタイヤの状態はノリスと比べて分がありそうだ。彼にストレートスピードを与えればラッセルを抑えてくれそうだし、2位争いが白熱すれば自分を追うどころではなくなるだろう』——。

サインツにはそんな考えがあったのだろうか。一歩間違えれば自分がノリスに抜かれかねず、ペースの見極めがなければできない戦術だった。

(※追記:サインツも「頭の片隅にあった作戦だった」と意図的なペース配分を認めている)

まさかの不振にあえいだレッドブル

レッドブル勢は予選・決勝とも、入賞圏の10位前後をさまよう不振にあえいだ。

予選ではフェルスタッペン11位、ペレス13位でまさかの2台Q2落ち。決勝はハードタイヤでスタートするリバースストラテジーで臨んだ。

フェルスタッペンは20周目のSC時にステイアウトしたことで一時2位に上がったものの、後続に抜かれる一方で第1スティントを終えた。

ミディアムに交換後は入賞圏外から周冠宇、ハース勢、ピアストリらを次々とかわして5位で終えたが、自身の連勝記録は「10」でストップ。ペレスも10位に終わり、チームの開幕連勝記録は「12」、昨年最終戦からの連勝記録も「15」で止まった。

レッドブル不振の原因は不明だが、予選Q2ではドライバー2人ともグリップの悪さを指摘した。決勝でもSC後のペースは上がらず、公道コースに起因するタイヤの温まりの悪さに問題があるのかもしれない。

最強チームがシンガポールで突如不振にあえぐ構図は、2015年のメルセデスを思い出した。

不運に苦しむ角田、鈴鹿で日は差すか?

角田裕毅は予選Q2のアタック中にフェルスタッペンに前を塞がれる不運もあり15番グリッド。決勝でも1周目に角田のインを差したペレスと接触して0周リタイア。イタリア、シンガポールと、2戦連続で1周もできない不運となった。

逆に運を味方にしたのがデビュー3戦目のローソンだった。レッドブルの不振に加え、オコンのリタイア、アロンソのピット作業トラブルにより9位に繰り上がった。日本のスーパーフォーミュラの初レースで優勝し、現時点で3勝を挙げた適応力の高さを見せつけた。

今週末は日本GPを迎える。鈴鹿でのフェルスタッペン戴冠の可能性は消えたが、レッドブルコンストラクターズタイトル決定は濃厚となった。

不本意なレースが続く角田に日は差すだろうか。

交錯するモンツァの記憶と、「第2のセナ」への想いを馳せて

1988年のセナ。マシンはマクラーレン・ホンダMP4/4

イタリアGPの観戦記で、『フェルスタッペンの6周目1コーナーの接触回避に、彼のこの2年間の成熟をみた』と書いた。その記事を読み返したとき、2021年のクラッシュに加えて、モンツァの1コーナーにはもう1つの記憶があると気づいた。1988年の最終ラップ、アイルトン・セナが優勝を逃した「あの」1コーナーのクラッシュだ。

88年と2021年、23年の記憶が交錯するなか、「なぜ人はセナに思いを馳せるのか」「なぜセナは特別か」、そして「第2のセナは生まれるか」という夢に想いを馳せてみた。


※セナの略歴を別ページでまとめました。セナに詳しくない方はこちらもご覧ください。

■目次■

  1. 88年、上手の手から水が漏れたセナのクラッシュ
  2. 繰り返されてきた「○○はセナを超えた」の議論
  3. セナをセナたらしめるのは『神が造った舞台』を造ること
  4. 状況をひっくり返す「セナが造った奇跡」
  5. フェルスタッペンは「神の舞台」を造れるか?
  6. 満たされぬ郷愁を抱きつつ、それでも夢を見るF1ファン
  7. あとがき

88年、上手の手から水が漏れたセナのクラッシュ

シュレッサー車を抜こうとして接触、車輪が浮き上がるセナのマシン

有名なセナの接触リタイヤは88年モンツァの最終ラップで起こった。セナがトップで1コーナーを迎えたとき、目の前で周回遅れのジャン・ルイ・シュレッサーがブレーキングをミスして軽く白煙を上げた。

セナは周回遅れを抜く機会とみて、インに飛び込む。一方のシュレッサーはこの狭いコーナーでセナに譲る意図はなく、シケイン切り返しの右カーブで両者は接触。セナはシュレッサー車にはねられたのちに後ろ向きで縁石に乗り上げ、亀の子状態に。まさかのリタイアを喫した。

5秒後方につけていたベルガー、アルボレートのフェラーリ勢が1-2に繰り上がり、そのままフィニッシュ。88年のマクラーレン・ホンダ唯一の黒星だ。フェラーリ創業者のエンツォ・フェラーリの死去1カ月後の弔い合戦の勝利とあって、フェラーリの聖地モンツァは怒涛のような熱狂に包まれた。

セナの接触により、フェラーリ1-2勝利を決めたベルガー(手前)とアルボレート。サーキットは沸騰した

セナは接触の原因を「自分のミス」と認めている。当時の第1シケインは現在のような単純なレイアウトではなく、コース幅が狭いうえに左・右・左・右と切り返す複合コーナーのようなレイアウト。シュレッサーがブレーキミスしたとはいえ、コントロールラインで1秒近くあった相手を抜くのは無理があった。

セナの動きについて、今年のイタリアのFP2でフジテレビNEXTの解説を務めた津川哲夫さんはこのようにコメントした。「セナは前のクルマを抜かずにいられない人。その部分が出てしまったんだろう。追い抜きが得意だからこそ突っ込んだ」——。

イタリアGP時点でセナは王座争いのトップを走っており、ここで勝てばリードは盤石なものになるはずだった。しかし、上手の手から水が漏れた。

セナは「最速の人」ではあったが、決して「完全な人」ではなかった。完全でないからこそ、いまでも多くの人の心をつかんで放さないヒーローなのだろう。

繰り返されてきた「○○はセナを超えた」の議論

今年のフェルスタッペンはイタリアで史上最多の10連勝を決め、「セナを超えた」とも評される。

私はこの手の「〇〇はセナを超えた」との表現をあまり信用できない。一時はミハエル・シューマッハも、ベッテルも、ハミルトンもセナを超えたことになっていたからだ。

しかし、シューマッハメルセデス時代を迎えたとき、セナと比較されることは皆無だった。フェラーリ時代以降のベッテル、現在のハミルトンもセナとの比較の言葉はほぼない。

それでは、セナを伝説たらしめているのは何だろうか。

理由のひとつは、セナは94年のタンブレロで天国へと旅立ってしまったことだ。

私たちはセナの全盛期の姿しか見ていない。いや、ドライバーとして円熟する全盛期はこれからだったかもしれない。本来はタンブレロの先に4回目、5回目の王座があるはずだったし、いずれはシューマッハハッキネンに負けるときが来たはずだ。

セナが生きていたら、どのような形で後進のドライバーに時代を託したのだろう。想像もできない。衰えの時代も経験したシューマッハらは、全盛期で散ったセナと単純比較できないと感じる。

「あの」瞬間。94年サンマリノGPのタンブレロコーナー

2つ目の理由は、セナにはプロストがいたことだ。これだけ傑出したドライバー2人が同時代に存在し、88、89年はチームメイトとして、90年は最強マシン同士でぶつかり合うことはF1の歴史上ほとんどない。

21年のフェルスタッペンとハミルトンは近年で唯一の例外だったが、対決はたった1年で終わってしまった。

89年に始まるセナ・プロの確執は、F1にとどまらず自動車業界、フランス政界をも巻き込む論争に発展した。私は2人の確執を、互いに内心ではリスペクトし合った『偉大なる兄弟ゲンカ』だと感じている。

さらに3つ目の理由として「予選での絶対的速さの追求」が挙げられる。生涯で65回のポールポジション記録は、当時歴代2位のクラークとプロスト(33回)の倍近くで、「絶対に破られるない金字塔」とされてきた。

セナをセナたらしめるのは『神が造った舞台』を造ること

しかし、「志半ばの夭折」「ライバルの存在」「予選での圧倒的速さ」だけではセナを表現しきれない。私は、セナが伝説として語り継がれる大きな要因はほかにあると感じる。

それは「神が造るような舞台」を自分で造ってしまうことだ。

私はF1を見始めたのは92年で、セナの3回のタイトル獲得はリアルタイムで見ていない。それでもセナが「神が造ったような舞台」で勝つ姿を何度か見てきた。

そのうちの1つが93年第2戦のブラジルGP。セナの地元で迎えたレースだ。

当時のセナ+マクラーレン陣営は、アクティブサスとルノーエンジンを持つプロスト+ウィリアムズ陣営に戦力で圧倒的に負けていた。

セナは予選で、ポールポジションプロストに1.8秒の大差をつけられる3番手にとどまった。得意のはずの予選で、決して予選重視でないはずのプロストにこれ以上ない恥をかかされた。

戦力の劣るマクラーレン・フォードMP4/8に乗るセナ

スタートで2位に上がるが、11周目にプロストのチームメイトのヒルに抜かれて3位に落ちる。この日がF1デビュー4戦目で、ウィリアムズ加入2戦目のヒルにあっさり抜かれる、というところにセナの苦境が表れた。セナ応援に駆け付けた地元の観衆も静まり返った。

ところが、インテルラゴスに突如の豪雨が降り出す。ホームストレートで鈴木亜久里片山右京の2台がクラッシュ。滝のような雨で、ストレートの奥を見通すこともできない。

プロストは無線トラブルで2周にわたってピット入口を通り過ぎ、豪雨のなかをスリックで走った。30周目、1コーナー外側で停止したフィッティパルディを避けられぬままクラッシュ。プロストはマシンを降りた。

1コーナーでフィッティパルディに衝突、マシンを降りるプロスト

セナに降ってきた勝機だ。この瞬間、観衆からは割れんばかりの歓声が起こった。

雨による混乱を受けて近代F1では初となるセーフティーカーが導入された。セナは一時、黄旗違反を取られて首位のヒルに大きく遅れたが、隊列の徐行走行により前後の間隔はほぼゼロとなった。

37周目にセーフティーカーが解除となり、各車がスリックに交換すると2位セナは首位を行くヒルに猛然とスパート。40周目にインフィールドのヘアピンで一気に抜いた。

セナはそのまま独走でチェッカーを受けた。コース上になだれ込んだ観衆にふさがれ、ウィニングランを回りきれずにコース上でストップ。セナはオフィシャルカーのフィアットの窓枠に腰掛け、手を振りながら凱旋のようにコースを回っていった。

プロストをクラッシュに追い込んだ豪雨はサンパウロでは珍しいものではない。サンパウロ出身のセナは雲の様子から豪雨になると読み、早めにタイヤを替えていた。神が豪雨を降らせたのではない。セナがいたからこそ、豪雨が「神が造ったような舞台」にように見えるのだ。

1993年ブラジルGPハイライト

状況をひっくり返す「セナが造った奇跡」

それより2年前の91年ブラジルは、ギアトラブルで6速しか使えない状態、残り3周の雨、ゴール後のセナの嗚咽が偶然にも放送マイクに入った「伝説のレース」だった。

しかし、93年のブラジルも、スコール性の雨、最大のライバルであるプロストのクラッシュ、ヒルへの追い抜き、最後の凱旋と、こちらも伝説的レースだった。最強ウィリアムズの強さを肌身に感じていただけに、リアルタイムで見た93年の逆転劇にカタルシスを感じた。

コースに乱入したファンにブラジル国旗を渡されるセナ。余談だが、ウィニングランの最初のころ、セナのスポンサーの「ナシオナル銀行」のライバル銀行の社旗を手渡され、しばらく走ってから放り投げるシーンがあった

私がリアルタイムで見た92-93年だけでも、92年モナコでのマンセルとの大バトル、93年ドニントンでのオープニングラップでのごぼう抜きなど、多くの伝説的レースがある。

92年モナコの残り8周でマンセルに起きたタイヤトラブルは偶然のアクシデントだが、2位セナとのタイム差がもう少し大きくても、小さくても、あのバトルは起きなかった。マンセルと28秒差で食い下がったセナの走りがあるからこそ、大バトルの奇跡は生まれた。

そして、93年ドニントンも「神が造った逆転劇」ではない。英国でよくあるシトシト雨をセナというフィルターを通して見たからこそ、私たちは「奇跡」だと感じるのだ。

セナのセナたるゆえんは『神が造りし状況』を自分で造ってしまうことだった。

セナの横顔

そして、奇跡はセナが勝つことだけにとどまらない。

前述の88年モンツァもセナの視点では周回遅れの処理を焦ったミスだ。しかし、セナの肩越しに観衆がフェラーリ2台を見ると、「エンツォ追悼の奇跡の逆転勝利」だった。

モンツァの「神が造りし奇跡」も、セナが一役買ったのだ。

フェルスタッペンは「神の舞台」を造れるか?

セナ以降のドライバーの「劇的勝利」「劇的逆転」の事例を取り上げたい。

シューマッハの場合は98年ハンガリーの大逆転や、2000年日本のタイトル決定劇が記憶に残る。しかし、それらはロス・ブラウンの知恵やクルーの迅速な作業、そしてシューマッハの圧倒的ドライビングが生んだ勝利だった。

ハミルトンは08年最終戦ブラジルでの最終周でのタイトル決定劇が挙げられる。しかし、グロックの後退はスリック走行のギャンブルが最終周の失速を招いた、という表現が正しく、ハミルトンが起こした「奇跡」とは表現しがたい。

20年のトルコで摩耗しきったインターミディエイトタイヤで最後まで走り切ったドライビングや、同年イギリスGPでの最終周のタイヤバーストを乗り切った優勝も記憶も新しいが、これらもハミルトンのテクニックが呼んだ勝利といえるだろう。

なにより彼の場合は14~20年のメルセデス全盛期と重なり、いまひとつ逆境を跳ね返したカタルシスの印象が弱い。

21年の死闘を演じたフェルスタッペン(手前)とハミルトン

そしてフェルスタッペン。今年の彼の10連勝、12勝(イタリアGP終了時点)のなかには、雨中のオランダのような本人のテクニックがさえた逆転勝利もあった。シーズンを通じてミスもほとんどない。

しかし、レッドブルの戦力が黄金期となっていること、ライバルのフェラーリ勢、メルセデス勢がそろって不振であること、モナコアロンソのような敵失もあり、順当に勝ち切ったとの印象が強い(※その「順当に勝つ」を10回繰り返すことが偉大なのだが)。

タイトル決定劇として有名な21年アブダビ、そして突如の連覇が決まった22年の大雨の日本も劇的レースの候補に入りそうだ。しかし、いずれも「FIAの介在」という点で論争があるのは確かだ。

そのほかの候補としては15年スペインでの18歳での史上最年少優勝、16年ブラジルでの雨中の追い上げが挙げられる。特にブラジルの走りは「セナのドニントンのような走り」と例えられた。

今後、フェルスタッペンは「神が造りし状況」を自ら造ることはできるだろうか。

満たされぬ郷愁を抱きつつ、それでも夢を見るF1ファン

最近は雨天でセーフティーカーが入ったり、赤旗になったりで、すぐにレースが止まってしまう。雨がらみの伝説は起きづらいかもしれない。現代F1は緻密で、緻密の蓄積が大差となるがゆえに、一度ついたマシン差やチーム差を簡単にはひっくり返せない面もある。

永遠に満たされないセナの存在

セナを思い出せば思い出すほど、愛すれば愛するほど、「第2のセナ」は現れない。そもそも「セナ」の定義自体も私の仮説は間違いで、ファン1人1人が別の「セナ像」を持つに違いない。

私たちは次世代、そのまた次の世代へセナの存在を語り継ぎ、F1を見続ける。

ファンは「セナ不在で満たされぬ郷愁」を感じつつ、それでもセナを超える存在に夢を抱くのだろう。


あとがき

イタリアGP1コーナーでの今年のフェルスタッペンの動きをきっかけに、88年1コーナーでのクラッシュを連想し、セナを題材にした記事を書きました。

木曜日夜に着想を得て、金曜日中に書き上げる躁状態での執筆でした。しかし、セナという題材は躁状態でなければ書ききれなかったと思います。

一番頭を使ったのは、「セナの特別さをどう言語化するか」でした。予選の速さだけでもなく、志半ばで夭折した悲劇性にあるわけでもない。そこでたどり着いたのが「神が造ったような状況を、自分で造ってしまう」ことでした。

若いF1ファンも増えましたが、私たちオールドファンとの違いが「セナの特別性」の認識にあると思います。若い人はなぜオールドファンが「セナ、セナ」と口にするのかわからない。私ですら91年以前のセナはリアルタイムでは知りません。

たとえ少数の方であっても、この記事がセナを語り継ぐ助けとなるよう願っています。


(おまけ)

ここまで書き終えたとき、モンツァ1コーナーの「魔物」は96年ヒルの急増タイヤバリアへの接触、99年ハッキネンの単独スピン、06年アロンソエンジンブローの事例もあると気づいた。このコーナーは王者に向けた鬼門、あるいはチャンピオンを養成する孵化(ふか)器の役割もあるかもしれない。

アイルトン・セナの略歴

最速を求める姿勢と端正なルックスから、「F1史上で最もファンを魅了した」と評されるレーシングドライバー。1980年代から90年代半ばまで、自動車レース最高峰の舞台で活躍した。3度のF1ワールドチャンピオンに輝いたものの、レース中の事故により34歳の若さで世を去った。

(※この略歴は評伝記事『交錯するモンツァの記憶と、「第2のセナ」への想いを馳せて』の補足資料として書きました)

アイルトン・セナ

1960年、ブラジル・サンパウロで生まれる。4歳のころに父親から贈られたカートに乗り始め、78年から世界カート選手権に参戦した。

ジュニアフォーミュラを経て、83年の英国F3に参戦。初年度で当時の最多勝となる20戦12勝を挙げてチャンピオンに輝いた。

翌84年に中堅チームのトールマンからF1デビュー。同年モナコGPの豪雨のなか、驚異の追い上げで2位表彰台を決め、一躍注目の的に。翌85年にロータスに移籍し、同じく豪雨のポルトガルで初優勝を飾った。

88年に満を持して強豪マクラーレンに移籍。最強マシンMP4/4とホンダエンジンによって、チームメイトのアラン・プロストとシーズンを席巻した。16戦でセナ8勝、プロスト7勝となり、セナが初の世界王者に輝く。最強ドライバーの2人の関係は「セナ・プロ対決」とも呼ばれた。

翌89年はセナとプロストのチーム内での確執が明らかとなる。同年終盤の鈴鹿でセナはプロストに体当たりされる形で接触。その後の不可解な失格裁定により、王座をプロストに奪われた。当時の競技団体「FISA」のバレストル会長が、同じフランス人のプロストに肩入れした裁定といわれる。

最大のライバルだったプロスト(左)とセナ。確執が起こる前の写真

90年にプロストフェラーリに移籍し、2人は異なるチームでの争いに。またも鈴鹿がタイトル決着の舞台となり、セナはスタート直後の1コーナーで、前年のお返しとばかりにプロストに突進。クラッシュによる両者リタイヤで、セナがタイトルを奪還した。

クラッシュがFISAプロストを憎んだ故意であることは翌年セナ本人が認めている。しかし、セナ・プロ両者に禍根が残った。

91年も連覇して3回目の王座獲得となったが、92年以降は強豪チームのウィリアムズがアクティブサスなどのハイテク装備で戦力を上げた。ハイテク開発に後れを取ったマクラーレンは苦戦を強いられ、ホンダも92年をもってF1活動を休止した。

そのなかでも92年モナコナイジェル・マンセルとの大バトル、93年ドニントンでの雨中での1周目のごぼう抜きは、マシンの非力さを跳ね返したセナの名勝負として名高い。「モナコマイスター」と、雨に強い「レインマスター」はセナを象徴する称号だ。モナコ通算6勝はいまだ破られていない金字塔だ。

プロストの引退レースとなった93年最終戦のオーストラリアGPで、勝者セナは2位プロストと表彰台で握手を交わし、肩を組んだ。愛憎絡み合う2人はついに和解に至った。

5年間の確執を続けたセナ(右)とプロストは93年最終戦で和解。ぎごちなくプロストの手を掲げるセナ。セナが亡くなるまでの半年間、2人は定期的に電話で話す仲に

翌94年はプロストが抜けたウィリアムズに加入した。最強マシンを得たはずが、同年よりハイテク装備を禁止され戦力は大幅ダウン。新鋭ミハエル・シューマッハを相手に苦しい戦いを強いられた。

5月1日のサンマリノGPで、セナはトップ走行中にタンブレロコーナー外側の壁に激突。志半ばで天に召された。ステアリング周りのトラブルが原因とされる。

セナは予選の最速タイムにこだわった。通算65回のポールポジションは、2位のプロストとクラークを倍以上上回る当時の最多記録だ。94年の劣勢でも最速を貫き、シューマッハに一度も予選1位の座を譲らなかった。

94年のセナ。サンマリノGP初日、実車走行中にテレビ向けのコース解説を務めたセナは、無線を通じて「親愛なる友人、アラン。元気かい? 君がいなくなって寂しいよ」と、放送席のプロストにメッセージを送った

セナと日本の結びつきは強かった。ホンダとの関係は6年続き、3回のタイトルはすべてホンダエンジンで獲ったもの。王座決定の地はすべて鈴鹿だった。「音速の貴公子」と称され、勇敢ながら憂いのある表情は多くの日本人に愛された。

享年34。


この「略歴」でセナに興味を持たれた方は、88年イタリアGPや93年ブラジルGPなどの伝説的シーンを取り上げたこちらの記事も参照ください。


セナの生涯を知りたい方向けの映像素材は、映画「アイルトン・セナ~音速の彼方へ」が有名です。ただし、プロストを悪者に仕立てすぎている感があり、フジテレビの追悼特番「至上の愛とともに さらばアイルトン・セナ」のほうが編集の完成度が高いと感じます。YouTubeにはこちらにアップロードされています。