アイルトン・セナの略歴
最速を求める姿勢と端正なルックスから、「F1史上で最もファンを魅了した」と評されるレーシングドライバー。1980年代から90年代半ばまで、自動車レース最高峰の舞台で活躍した。3度のF1ワールドチャンピオンに輝いたものの、レース中の事故により34歳の若さで世を去った。
(※この略歴は評伝記事『交錯するモンツァの記憶と、「第2のセナ」への想いを馳せて』の補足資料として書きました)
1960年、ブラジル・サンパウロで生まれる。4歳のころに父親から贈られたカートに乗り始め、78年から世界カート選手権に参戦した。
ジュニアフォーミュラを経て、83年の英国F3に参戦。初年度で当時の最多勝となる20戦12勝を挙げてチャンピオンに輝いた。
翌84年に中堅チームのトールマンからF1デビュー。同年モナコGPの豪雨のなか、驚異の追い上げで2位表彰台を決め、一躍注目の的に。翌85年にロータスに移籍し、同じく豪雨のポルトガルで初優勝を飾った。
88年に満を持して強豪マクラーレンに移籍。最強マシンMP4/4とホンダエンジンによって、チームメイトのアラン・プロストとシーズンを席巻した。16戦でセナ8勝、プロスト7勝となり、セナが初の世界王者に輝く。最強ドライバーの2人の関係は「セナ・プロ対決」とも呼ばれた。
翌89年はセナとプロストのチーム内での確執が明らかとなる。同年終盤の鈴鹿でセナはプロストに体当たりされる形で接触。その後の不可解な失格裁定により、王座をプロストに奪われた。当時の競技団体「FISA」のバレストル会長が、同じフランス人のプロストに肩入れした裁定といわれる。
90年にプロストはフェラーリに移籍し、2人は異なるチームでの争いに。またも鈴鹿がタイトル決着の舞台となり、セナはスタート直後の1コーナーで、前年のお返しとばかりにプロストに突進。クラッシュによる両者リタイヤで、セナがタイトルを奪還した。
クラッシュがFISAとプロストを憎んだ故意であることは翌年セナ本人が認めている。しかし、セナ・プロ両者に禍根が残った。
91年も連覇して3回目の王座獲得となったが、92年以降は強豪チームのウィリアムズがアクティブサスなどのハイテク装備で戦力を上げた。ハイテク開発に後れを取ったマクラーレンは苦戦を強いられ、ホンダも92年をもってF1活動を休止した。
そのなかでも92年モナコのナイジェル・マンセルとの大バトル、93年ドニントンでの雨中での1周目のごぼう抜きは、マシンの非力さを跳ね返したセナの名勝負として名高い。「モナコマイスター」と、雨に強い「レインマスター」はセナを象徴する称号だ。モナコ通算6勝はいまだ破られていない金字塔だ。
プロストの引退レースとなった93年最終戦のオーストラリアGPで、勝者セナは2位プロストと表彰台で握手を交わし、肩を組んだ。愛憎絡み合う2人はついに和解に至った。
翌94年はプロストが抜けたウィリアムズに加入した。最強マシンを得たはずが、同年よりハイテク装備を禁止され戦力は大幅ダウン。新鋭ミハエル・シューマッハを相手に苦しい戦いを強いられた。
5月1日のサンマリノGPで、セナはトップ走行中にタンブレロコーナー外側の壁に激突。志半ばで天に召された。ステアリング周りのトラブルが原因とされる。
セナは予選の最速タイムにこだわった。通算65回のポールポジションは、2位のプロストとクラークを倍以上上回る当時の最多記録だ。94年の劣勢でも最速を貫き、シューマッハに一度も予選1位の座を譲らなかった。
セナと日本の結びつきは強かった。ホンダとの関係は6年続き、3回のタイトルはすべてホンダエンジンで獲ったもの。王座決定の地はすべて鈴鹿だった。「音速の貴公子」と称され、勇敢ながら憂いのある表情は多くの日本人に愛された。
享年34。
この「略歴」でセナに興味を持たれた方は、88年イタリアGPや93年ブラジルGPなどの伝説的シーンを取り上げたこちらの記事も参照ください。
セナの生涯を知りたい方向けの映像素材は、映画「アイルトン・セナ~音速の彼方へ」が有名です。ただし、プロストを悪者に仕立てすぎている感があり、フジテレビの追悼特番「至上の愛とともに さらばアイルトン・セナ」のほうが編集の完成度が高いと感じます。YouTubeにはこちらにアップロードされています。
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